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| 第14回『唇に捕らわれた蝶』(2002_09_03) |
私は、目に見えるものすべてが薄暗く青い、ブルーグレーの世界にいました。たぶんそこは白く大きな空間で、私の服も白かったけれど、そこに差す光が、ブルーグレーだったのだと思います。床も壁も、何もなくて、果ては見えませんでした。
すると、それよりもさらに暗く青く光る、とても大きな蝶が飛んできました。揚羽蝶のようで、でも羽は瑠璃色で、薄暗い中にあっても、少し光っているように見えます。
わあ、きれい。
と口を開いた私ですが、声が出ませんでした。音のない世界だったようです。
高々と手をかざすと、蝶は行きつ戻りつしながらも、こちらへヒラヒラと寄ってきます。そして、私の目の前までやってきたのです。
とてもきれいで、触れてみたいと思いました。でも、絶え間なく羽ばたく蝶は、とても脆く、儚いようで怖いのです。
指先よりも柔らかいものは。
知らぬ間に私は、そっと唇を差し出していました。
蝶の羽が柔らかく私の唇をかすめたとき。それを感じた蝶は、激しく羽ばたきました。驚いた私は、思わず唇を開きました。そして、閉じてしまったのです。
いけない。
遅すぎました。唇に感じる、ビクッビクッと動く蝶の力。私が唇を開けば、きっと羽が破れてしまう。蝶は地面に落ちるでしょう。
どうしたらいいの。
きれいだなあと思っただけなのに。壊したらいけない、傷つけたらいけないと思ってしたことが、こんなになるなんて。
ごめんなさい、ごめんなさい。
私は蝶を唇に挟んだまま、涙でぐしゃぐしゃになりました。しゃくりあげても、何の音もしません。
そこへ、遠くからカツカツとヒールの音を響かせながら、一人の女性がやってきました。真っ赤な無地のワンピースを着た、冷たいほどに整った顔立ちの、見たこともない人。
「何してるの?」
声が出ない、音も出せないのは、私だけだったようです。たずねた彼女は、私の顔を見るなり眉間にしわを寄せました。
どうにかして。
涙目で訴える私に、彼女は言いました。
「そんなの、どうってことないわ。離しなさい」
もう、だめ。
私は、唇を開き、蝶を離しました。蝶の躍動が唇から消えて、スルスルとした鱗粉の感触だけが残ります。
「汚らしい。気を付けないとだめよ」
その人は言うと、カツカツと足音をたてて去っていきました。
汚くないよ。きれいだったよ。
さっきまでは。私が見つけるまでは、あんなにきれいだったよ。
私にさえみつからなければ、きっと今でもきれいだった。
お願いだから、そんなふうに言わないで。
私が悪いの。私さえここにいなければ良かった。
私は泣きました。蝶は、もう飛べないのに、衰弱して死ぬまで羽ばたき続けるに違いありません。もう二度と蜜を吸うこともないでしょう。だったらこの手で…。
蝶はどこ。
蝶が落ちたはずの薄暗い足下を見ようとしたとき、私は夢から覚めました。枕が濡れるほどに泣いていました。あたりはまだ暗い。私はとても疲れていて、再び眠りに入ってゆきました。
そして、朝が来ました。顔を洗い、鏡を見ると、見事に目が腫れています。泣いたのは本当らしい。唇にも、蝶のもがく力と鱗粉の感触が生々しい。こういう朝はつらいです。いつものように始まる現実に、現実味がないのです。
一度目覚めた後、再びの眠りの中で、実はもう一度あの蝶を見ました。頼りなくも、ヒラヒラと羽ばたいて飛び去っていった、暗く青く光る蝶。あれは、悲しい夢を引きずりたくない私が意識的に見せたものか、本当にあの夢の続きだったのか。目覚めてしまった私には、知りようがありません。
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